日本人が忘れたもの

フィリピン人に学ぶ事!

今から33年前(それは、それは、若くてグワポな頃)にセブ島ダイビングツアーに行った時から私のフィリピン歴がはじまります。
それまでの私は、フィリピンがどこにあるのかもわからないほど世界地理には疎い人間でしたが何度か、フィリピンに行く程にフィリピンの海にハマるのと並行して、フィリピンの人たちを好きになってゆく自分に気がつき始めていました。  どこに? どの部分に?

それを明かすには府中で生まれ育った私の生い立ちを紹介しなければなりません。
「東京のふるさと」と呼ばれていた頃の府中は、のどかな田園がある自然あふれる街でした。

当時(昭和30年代)、小学生だった私は、学校から家に帰ればランドセルを放り投げ、毎日のように野山を駈けずり回って泥だらけになっていました。(あの頃は勉強しなかったなあ)
日が暮れる頃になると誰からともなく、「バイバイ、またあした」とそれぞれの家に・・・・・家に帰れば夕飯、それも兄弟でおかずの取り合い、当時は遊びをしていても食事の時もある意味戦争でしたが、その中から生きる術を自然に身につけていたように思いますし、お金はなかったけど大人は大人らしく、子供は子供らしく、生き生きと暮らしていたように思います。

いつ頃から日本人は人と人の心の繋がりよりお金や物を優先になってしまったのかと感じています。別にそれが悪いとは思いません、誰でもお金は必要ですから。しかし、それだけが先行するのは?  もう、お気付きですよね!

当時のフィリピンは私が子供の頃、体験した原風景がそのままに残っていたのです。
もちろん、風景だけではなく人々の(心の温かさ)や(シンプルな人生観)が私の子供の頃を思い起こさせて、懐かしさとこんな国に将来は住みたいと思い始めたのです。
それからは、時々フィリピンに行く事になりましたが私も当時20代と若かった事もあり生活に追われる毎日に感けて、いつしかフィリピンに対しての思いは薄れて行きました。


20代も後半になり一度、マニラ旅行に行く機会があり、その時、マニラで友人になった家に訪問する事になり、当時のスモーキー・マウンテンに行き、カルチャー・ショックを受けました。
学校にも行かず、と言うかお金がなくて行けなんだけど、子供たちが大人に混じって、必死にごみの中から金目のモノを拾っている様を見たときです。

あとから友人に聞いたのですが「私たちここの住民はその日の食事も困る程、大変な生活をしているんですよ!でもね、どんなお金持ちよりも心は豊かなんです。それは、貧乏だけど、我われには神様と愛する家族があるからです。」と・・・(絶句)
本音と建前はあるとは思いますが、なんてシンプルなんだ!!と現在の日本で家族がいるだけで幸せだと考える人がどれだけいるでしょうか?
それどころか、家族がいる事が今風に言うなら、「ウザイ」と若者たち。つい最近お辞めになった総理大臣いわく、「美しい日本」なんてこの国には死語です。!

ああ!私が子供の頃にあった美しい日本が懐かしい・・・夢をもう一度(トホホ)
少し感傷に慕ってしまいましたが、これ以後、私はなにかできることがないだろうかと模索するようになり始めたのです。
とはいえ何が自分にできるのかと!?しかし、私も神や聖人ではありませんので何も出来ずに時だけが過ぎていきました。

そんな時、あるフィリピンパブで出遭ったピナイに恋をする事になります。

名前は、ミラーグロス バレーラ(店ではアミー)黒髪のストレートで浅黒く大きな黒い瞳のスレンダーにして美しい心を持った素晴しい女性でした。
彼女は店が終わるとアパートで食事をし、店のチェックが終わり次第に真冬にも関わらず、スリッパ履きでアパートから私の住まいまで徒歩で30分以上かけて毎日来ていました。
日本人でいくら好きな人の為とはいえ、そんな事までしてくれるを女性は30年近く生きてきていませんでした。

私がピナイに陶酔した瞬間でした。

それからの6ヶ月あまりは夢のような日々の毎日でしたし、彼女が居るから仕事も頑張れましたこれこそバラ色の人生に思えて、最初の頃は店に毎日行きましたが、彼女は「毎日だとお金も体も大変だから店には来なくていいヨ!私が貴方の所に行くから」と・・・
こんなエピソードも私にとっては快いものになっていきましたが、いつの世にも別れが来るのです。

ビザが終わりに近くなり、さよならパーティーがあり、その頃の私はこの子と人生を共にしても良いと思う程好きになっていましたが、最後に「フィリピンに行くから」「結婚するから」だからアドレスを教えてと云うと、「又この店に来るから待っていて」という答え、その頃の私は本当には深くピナイの気持ちは解らなく、良いイメージしかありませんでしたのですべてを信じるまででした。

あとで理解したのですが、日本に来るピナイのほとんどは家族の為に出稼ぎで来日し家族を養わなくてはいけなく、一度だけの訪日だけでは到底家族の一生の生活は立ち行かなく、何回かは日本に来なくてはならない事が判りました。
それでアミーが成田で死ぬほど、もう一生逢えないと思う程泣いていたのですが、私は「又、会えるんだからそんなに泣かないで」などとピナイの気持ちも分からずにいたのです。

その後にアミーが九州にブッキングされて連絡があり、「私、貴方と結婚したい、でもまだ出来ないの 私が日本に来ないとファミリーごはん食べれないだから・・・・・私、今度生まれてきたら日本人で生まれて、貴方と結婚して貴方の子供たくさん作りたい・・・・・あたし・・・・・」
結局、アミーとは私が住まいを変えた事もあり、電話番号も変わったのでそれきりになりました。

今思えば、下賎な話とは思いますが、もしかしたらアミーには他に結婚出来ない理由があったのでは?・・・たとえばファミリーって自分のアサワや子供ではなかったのか?(良くある話)だから、自分のアドレスを教えられなかったか!としばらくはそんな事を考える自分があったが、のちにアミーと同じ時期、同じ店に居たピナイに逢う事があり、何気なくアミーの事を聞いて見るとアミーの家族は田舎で家族が14人でおとうさんが仕事でけがをして足を切断、それから長女の彼女が家族を支えているとの事。それにアミーは「そんな家族を持ってる私と結婚したらカレの人生を壊してしまうから、そんな事になるならとても悲しいけど、私の人生はなんなのって思うけども、でも、私には愛する家族と、神様が居るから大丈夫」と最後は涙しながら笑っていたという。
その話を聞いて私は恥ずかしくて、嬉しくて、妻には内緒ですが今でもアミーには会ってみたいと思っています。

70年代~80年代初めの頃のピナイは、本当にイガッタ!!!

何が良かったかと申しますと当時のフィリピンパブは只々、にぎやかなお店ばかりでした。
日本人は、仕事で下からは突き上げられ、上からは叩かれの毎日で当時、自分のストレスを解消する術がない毎日の連続でした。そんな時、街にPパブという外人パブが現れたのです。
それはそれは楽しい、ストレスを発散出来るこの上ない空間でした。

その後、私は縁あってプロモーターとしてフィリピンに関わっていく事になります。

80年代に入り東京にもPパブが連立するようになり、私も以前からフィリピンの為になる事はないかと模索していたので、これは天職と思い、プロモーターとしてフィリピンに関わるようになり、月に一度は訪比するようになりました。
そこで目にしたのは、今まで観光で行ったフィリピンとは違うもので、例を挙げるとタレント達は私が今まで感じてきたふつうのフィリピン人とは違う考えを持った異性人がそこには居ました。
と云うのも、私の感じてきたフィリピン人気質は「年上を敬い、少し自分を一歩、引くような処があり、それでいてどこまでも明るく貧乏にも負けない強さを持った人々」という印象が強かったのですが、直ぐばれるような嘘を平気で言うことや、約束を平気で破ることや、人を陥れる噂話が大好きなどの悪しき性癖を垣間見たのです。

まあ、ピナイの全部が全部そうゆう人ではないのですが、ここで、少しですが、なんでそうなるの?とお思いの諸兄に簡単にピナイに代わり言い訳を致しますので聞いてください。

まず、そもそも、フィリピン人の胸の中には人に謝ると言う文化がないのです。
それはスペイン統治からの時代背景にあるのだと思うのです、フィリピンは長い間他国に侵略されて来ましたが、民衆の心の中には、国は侵略されたが、我々の心までは侵略されないという想いが強くプライドが高くて謝るぐらいなら、人を傷つけない程度の嘘をついた方が良いという考えが強いのではないかと思われます。

次に、約束については私の妻もホトホト、ピナイの嘘(約束を守らない)には閉口していますが、妻いわく、断るのがはずかしい、即ちプライドだとか?(約束を守らない方が信頼をなくしプライドはダウンするのでは)
  
最後に、ともかくピナイは噂話しが好きで特に人の悪口はひとつの市には即日の内に回ります。エピソードをひとつ、私の妻はリンと云うのですが、ある時他の街に妻と同じ名前のリンが麻薬をしていると言う噂が流れましたが、なぜか私の耳に入った噂は、マラーサのリンが麻薬をしていると云うもので、寝耳に水、サプライズで御座いました。(この事件は笑えませんでした。)だって、その後二ヶ月間マラーサの売り上げは下がったのですから。

さて、旅の続きに戻りましょう。

プロモーターの頃の私は、皆さん想像のとおり30才前半と若く、派手な生活を送る日々で最初に掲げた思いは何処へやら、月々、莫大な収入に生活は派手になり、タレントを入れた店の街のPパブ荒らしに連日、大金をばらまく始末!(但し自分のタレントには手は出しませんでした)ピナが私の食事がわりになっている程の荒れた生活でした。
その頃の私は、ひとつのパブは3度しか行かず、その度にピナイ食いをしていましたが、そんな生活も5年あまりで終焉を迎えました。

Pパブ全盛期ではありましたが、自分のやっている事に疑問を感じたからです。生活は荒れていましたし、本当にフィリピン人の為になっているのか?違うだろう、こんな事をしていてはいけないと思うようになり、スッパリと辞めてしまいました。

その後は、アジアを転々とし、実家で料理店を営んでいたことも在り、料理研究の旅に出て日本に戻ったのです。

それからは、やりたい事も特になく悶々としている所に見つけた仕事は、基盤を作る会社でしたが、なんとそこの社長がフィリピン好きで、私がフィリピン関係に詳しい事が判ると、仕事が終わると毎日のように私を伴って、Pパブに飲みに行くのが日課になっており、自然に私もお気に入りのピナイが出来ました。それが前妻になる女性のダリア アリソナールでした。
私の人目惚れでした。ダリアの容姿は以前、恋に落ちたあのアミーにうりふたつ、これはもう行くしかないと、猛アタックを開始するのでした。