日本人が忘れたもの

リンとの出会い

さて、此処まではピナイの陰の部分を書き記してきたが、此処からは光の部分に移り行く事になりますがその前に大事な事柄をひとつ挙げてみます。それは日本で出会ったピナイとは一定の距離を置いて付き合うことです。
ピナイは、ご存知のとおりチスミス(噂話)が好きですので、あまり親密になると厄介な事が多々起き、最悪の場合になると家庭崩壊も起きる可能性があることです。
日本でも同じですが、友人は良く選んで、出来うるなら奥さんにとって日本で信頼出来るのは、アサワだけと思わせるようにコントロールしてほしいものです。

さて、お待たせ致しましたが、今まで私が書いてきた事柄だけで判断されると、フィリピン人と繋がりを持つのは結構ですと、思われる諸兄にこれからの話をぜひ見ていただき、ピナイとの理想の結婚の有り方を学んでいただき、シンプルかつ、幸せな人生に活用して頂ければと・・・・・・・

リン(エバンジェリン)と出会ったのは、前妻のダリアとの結婚生活が終局に向いつつある時に行ったPパブでした。

店に入り、日本人のママに案内されるままに、一つのボックスシートに腰を降ろすと、二人のピナイが元気よく挨拶をし席に就いたのですが、私の席の前に座ったのが、何を隠そう後の愛妻になるリンでしたが、その日のリンはショーがあり、ダンサー用の濃い目の化粧をしたまま私の前に現れたので思わず「ママ、もう少しかわいい子は居ないの?チェンジ!」と今思えば、とても誠に失礼な一言からが始まりでした。もちろん、その言葉に、後にリンから私の第一印象はとの問いに対して、

「生意気な客だ!フン!」
「こっちこそ、お客チェンジ」
とこれまた最悪の出会いでした。(そらそうだ!)

そんな、最悪の出会いだった二人がなぜ、今は人も羨むほどの夫婦になれたのか?諸兄には疑問に思われたのではないかと思いますが、結果的にはそれだからこそ結婚出来たのではないかと考えられるのです。

店ではその後も私は、生意気な態度を変える事もなく、ふんぞり返りボックスシートに腰を掛け、タレントにとってはいやな客でいた私は、お酒が進むにつれて少しリラックス出来はじめ本来の明るく、ジョーク好きの自分に変身しはじめてきた頃になり、ママから閉店を告げらたので、会計を済ますと友人に就いていたピナイがアフターに行こうと誘うので、(その店はアフター店まで経営)よし、ここは勢いに任せて「行こう!」と答えたものの、他のピナイには先客があり、仕方がなくリンと同じビル内の4階にあるアフター店に行く事になり足を運ぶのでした。

(やはり、後にこのときのリンの気持ちを聞きだしたところ) 「やめてください、こんな生意気な人とはアフターまで一緒に行きたくない」と思ったようです。

しかし、アフター店にいって、私もリンもお互い気持ちに変化が現れるのです。

   まず、リンはショー用の化粧から素顔になり、私は「かわいい!」と思い!リンは「この人、見た目より面白くて、いい人かも!」とお互いに、印象が変わったのです。

私は素顔のリンを見たとき、シンプルで素顔の素敵な女性なんだと感じたのは当たり前なのですが、リンの私に対する印象が変わったのは、酒の力を借りて私がカラオケでタガログ語の歌を唄い即席のセクシーダンスまで披露して、店にいるピナイ全員の心を一つに盛り上げ、笑いの渦に引き込んだ事で、本来、明るい性格で楽しい事が大好きなリンの心に、それまでの私に対する悪いイメージが払拭され、尚、私に対して好意を持つ事になったのでした。

リンのお店に初めて私が行ったのは、リンが来日してから、一ヶ月になろうとしていた頃でしたが、その後、私はリンが帰国するまでの間の五ヶ月間でお店には三回しか行きませんでしたが、とても中身の濃い付き合い方ができました。

   と云うのも私には「壊れかけのラジオ」ならぬ「壊れかけの家族」がありましたので、さすがにリンだけに集中する事も出来ません(お金の面で!)が、しかし初めての同伴をした時などは時間に遅れずに時間どうりに待ち合わせの場所に来ていて私のほうが遅れてリンを待たせてしまいましたし、デートはと申しますと日曜日という事もありカトリック教会にいき、フィリピンで購入したサントニーニョの「魂入れ式」をはじめてのデートで行い、なにか、運命的なデートに結果なってしまいました。

そして、その日の夜、お店で今思えば勢いと乗りで,「結婚しようか!」「今の奥さんと別れたらね!」と私、それに対してリンは、心の中で「またか、うそつき日本人!」と、その時点ではリン自身、まさか本当に結婚するとは思いもしないでいたのです。

ただ、ダリアと比べたとき、リンは本来タレントとして来るような子ではなく、フィリピンの実家は、土地付きの家でタタイは仕事が有り、ナナイは専業主婦で別に無理をして日本に来なくても、生活に困るような家庭ではなく、日本に来る事になったきっかけは、短大を卒業して花嫁修業をしていたときに、親戚の子がタレントになる為にマニラのプロダクションにオーデション行くのに一人では不安なのでいっしょに行ってくれと頼まれてマニラに行き、なぜか、リンもオーデションを受けることになり結果、親戚の子は落ちてしまい、リンがオーデションに合格してしまうです、本人は日本に行く事に難色を示したのですが、プロダクションのマネージャーから「貴方の好きなダンスをしながら、お金がもらえるから、ぜひ一度だけでも日本に行きなさい!」といわれて、タレントとして訪日するようになり、私と出会ったのは訪日5回目でこれを最後のブッキングとして来日していたのでした。

考えて見れば、不思議な縁の積み重ねが私たち二人を結びつけたように思われます。

そもそも、親戚の子とマニラには行かず、オーデションにも受からなく、日本に来ていなければと・・・・・私もダリアとの生活がうまくいっていれば、逢う事もなかったのだと思います。

でも、それでは話は終わってしまうのですが、そうは行かないのが人生なのです。

二回目のデートはいきなりホテルに車を滑り込ませてはみたものの、「アヨコ ヒンディ プエーデ!」とつれない素振り、それまでの私のピナイ像は、そこまでくればピナイ特有のバハラになり殆どの場合、最後はOKになると思い込んでいたのですが、リンはかたくなに断るばかり、困り果てた私は、「何もしないから、寝るだけだから、」とお願いしてなんとかホテルの中までは入りましたが、諸兄は信じていただけないと思いますが、本当にふたりで寝てしまいました。(情けない!)
その日はそのまま店に入り、またもや大騒ぎの末、帰途につきました。

そして最後の夜となり、さよならパーティーになるのですがリンからの誘いに私はつれない返事で「仕事で忙しいから行けないヨ!」と答えましたが、本当のところは行かないと言いながら、サプライズ来店するつもりでしたが、その私の返事に涙こそ流しはしませんでしたが、

「もし時間ができたら来てね!」と悲しい声で答えるのでした。

サヨナラパーティー当日は、店が閉店する3時間前に私は入店しましたが、店の中に入ると大喝采でタレントたちが私を迎え入れてくれ、少しではありますが、びっくり!席に着くとリンを指名し、とりあえず自分でブランディーの水割りをつくり、すこし緊張ぎみの自分をほぐす為に口にし、リンの来るのを待つのでした。

しばらくしてリンが私の目の前に現れましたが、その姿は今まで私が見てきたリンではなく、まるで、お城でのシンデレラのように着飾った、とても綺麗な女性でした。

あとで他のタレントから聞いたのですが、私が今日来ない事がリンにとってはかなり悲しい事だったようで、私の席についたリンは満面の笑みで私を向い入れてくれました。

そして時間も楽しく過ぎ行き、タレント全員で合唱の「さようならの向こう側」がはじまると、全員のタレントが涙で唄う事が出来ず、私がステージに上がりタレントに代わり唄い始めると、他のタレントたちは別れを惜しむように全員が抱き合い、涙の嵐の中、リンだけが私の胸の中で静かにこのときを惜しむようにそっと涙しているのでした。

そんなことで、最後の夜も更けていき、まさかこれがリンと再会が、2年6ヶ月後になるとは!それは、リン25歳になったばかりの1991年秋が深まりつつある頃のことでした。

リンが帰国してからの私は、また地獄のようなダリアとの冷め切った結婚生活を続けていましたが、もはや真面目にシンプル生活が出来るはずもなく、Pパブ通いに没頭する無気力な日々を過ごしていました。

フィリピンの毒牙にはまり込んだ人間は、その甘い香りに見せられ続けるのです。

そんな折、リンが帰国してから3ヶ月ほどしたときに行ったPパブに、リンと時を同じくして働いていたタレントに会うことになり、その子からショッキングな話が・・・

「クーヤ、おめでとうネ! アテ リン ボンテス だって?」 (またか! 私はSEXしてね~!)

これを聞いて私はダリアには内緒で貯めていた100万円(リンとの結婚の為に貯めていたのだ。)を翌日には、一晩で使い切りました。(ここにも、馬鹿な日本人がひとり)

当時、リンの自宅には電話がなく、連絡は手紙のみでリンが妊娠したかどうか確認取れたのは、その話を聞いてから、1ヵ月を過ぎた頃でした。 私の問いにリンは、「馬鹿じゃあない! 私はバージンだよ!」 「何考えてるの?」 「アコは 結婚するまではしないの!」と怒られてしまう始末で、その上にリンは、

「人は信じる事です。 まして愛する人は信じなければいけないの!」 
「わかった!」

とこれまた13歳も年下の彼女に教えを戴く私でした。

それ以後の私は少なくともダリアとの結婚生活にピリオドをうちリンとの将来を考えるようになり、それに向けていた矢先にリストラになり、どうにもならないほどの荒んだ生活に落ちて行き、ダリアとの離婚の話し合いが済む頃にはキャバクラの厨房で働き、日払いで1万円の給与で寝るのは、閉店した後の店の中と最低の生活をし始めましたが、ひとつだけよい事が起きました。

それは1994年9月1日ダリアとの離婚が正式に決まり、リンに電話をしてその旨を話し、まだ、私のことを待っていているのかを確認したときの事でした。

 私: 「ハロー クムスタ?」

 リン:「シノト?」

 私: 「アコ シー ケント!」

   私: 「パカサール ナ タイヨー」 「まだ、待っててくれた?」

 リン: 「いいよ! 待ってるよ!」

 私: 「わかった もう少しだから 待っててね!」

なんと、別れてから2年も経つのに連絡も取れずらい私を待ち続けていてくれるとは、この時ほど、フィリピン人の心の温かさを感じた事はありませんでした。

それから私はこの生活から脱出するために、11月の半ばに某、デパートストアーの配送センターの、トラックドライバーになり、4tトラックを運転して、12月、1月、2月の給与をほとんど手付かずにしてリンの待つフィリピンに向うべく朝の3時に起きいざ、駅へとアパートの階段を下りていくと、そこには私をフィリピンに行かせたくないのかと思うように、外は大雪が降り続いていたのです。

歩いて駅までは1時間はかかるので雪が降り積もる中、自転車に飛び乗り、20分ほどかけて、駅へ無事、到着!(その日の東京は深夜からの雪で多摩地区は30センチの積雪がありました)

1995年の2月26日の朝のことでした。