日本人が忘れたもの

イメージを悪くする日本人

大雪の中をなんとか新宿まで電車でいき、シャトルバスで成田空港に着き、誰よりも早くチケットを受け取るべくカウンターへと足を運ぶと、またもや問題が・・・
なんと、私が乗る飛行機がない。(愕然!)

前日の夜に着くはずの飛行機がフライトキャンセルされており、私の乗るはずのフィリピン行きの飛行機がないのだ。

くわしい説明を聞くと、今、マニラから成田に向っているとの事で、あとどのくらいで成田に着くのかと尋ねると、もうしばらくすれば着きますとの答えなので、これはまず、4時間30分もの道のりのヌエヴァエシーハ州サンホセ市からマニラ空港まで出てきたリンに連絡を取ろうと考えた末に、サンホセにいる妹のエルビィに国際電話をして現状を説明してマニラ空港の港内アナウンスを頼み安心させることをしましたが、そのときマニラのリンはアナウンスが届かない場所におり、ただ、日本からの飛行機の遅れを表示するボードを信じ、ひたすら私を待っていたのでした。

そして、私がマニラに着いたのは夜の10時を過ぎていました。

以前から、フィリピンエアーラインは、PALの頭文字をひねって、パセンジャー オール レイト (PALに乗るとお客様はいつも遅れてしまう)というほどで、理解していましたが、200回を超えるマニラ行きでここまで遅れたのは初めてで、私はリンはもう、田舎に帰っているだろうと思っていました。

入国審査を済ませ、ターンテーブルから荷物を受け取り、荷物検査を済ませて外に出てしばらくの間リンがまだ待っていてくれのを期待して、探してみる事に・・・

すると、そこには2年半ぶりに逢うことになる、日本では見た事のない何処にでもいるシンプルな、いでたちのリンを見つけ、次の瞬間お互いに駆け寄り、まるで映画のワンシーンのように抱き合い離れていた2年半を埋めるように濃厚なキスシーンを周りに沢山の人がいるにもかかわらず、続けるのでした。

そんな、空気を読むことなく私の肩を叩き、「しゃ~ちょさん、泊まるホテルは?」と一人のピノイが声を掛けてきました。

その言葉に、私はリンにホテルのブッキングは済んでいるのか確認したのですが、まだだという答え!夜の10時過ぎになり、これからサンホセ市まで行くのはきついので、そのピノイにホテルのプライスなどを、聞き、私の想定内プライスだったので、そのホテルに泊まる事にしました。

まずは、ホテルのチェックインを済ませ、空港で食事もせずにひたすら私を、待ち続けてくれていたリンと弟のロイを従えて近くのレストランで食事をし、その夜は、ロイに別部屋もとり、私とリンは二人きりになり、はじめての夜を迎えました。

リンにとってはまさに初めての夜で、恥らうリンにシャワーを勧め、私はダリアとの結婚の間、一度もマニラに来ていなかったこともあり、マニラに来た事を実感するためにフィリピンTVのスイッチに手をのばし、エンジョイしようと思いましたが、これから無事すべてが終わり、帰国できる事を望むあまり、それらが頭から離れず、そのときに流れていたTVの内容は全然覚えていないほどに、ある意味、初めての夜を迎えるリンよりも私のほうが緊張していたかもしれません。

そんな私の心など理解しているのか、いないのか、明るく無邪気な顔でシャワーを終えたリンが、「イカウ デン シャワー ムナ!」の声に背中を押されるように私もシャワールームへ、考えて見れば、大雪の東京から30度を越す常夏のマニラに来て噴出す汗もそのままで過ごしてきた私の身体は熱いシャワーを欲していたのでした。

これから始まるふたりにとって初めての儀式を思うと最初熱いシャワーでしたが、高まる身体の火照りを下げるように無意識のうちに水のシャワーを浴びる私がそこにいたのです。

その夜の出来事はリンから絶対書き込むなとのことなので皆さんのご想像にお任せします。 だが、私の感想だけでも少し書く事にします。  ずばり、イッガタ!

私とリンはその後、疲れもピークであったようで死んだように眠りに就き翌日を迎え、朝のモーニングサービスを済ませ、日本大使館に足を運び、書類を英語文に変換してもらう為に書類を出し、結婚の手続きを依頼するために、フィリピンの司法書士の免許を取得している以前からの友人の事務所に行き、書類の作成依頼を済ませ、大使館に出した書類を翌日に取った後に再び、事務所に顔を出す事を告げて、事務所を後にし、2日目の予定は無事済む事ができ、後は、マニラを満喫する夜を待つだけですが、まだ日も高いので、ウィンド ショピングに出かける事に!

   ホテルから近いロビンソンに向かい、しばらく楽しもうということになり、3人で歩いていると前から、派手な服装のピナイを3人引き連れた50代の日本人が馬鹿でかい声を上げて、歩いてくるのが見えました。

その日本人は何の恥じらいもなく両手で2人のピナイの肩を抱き寄せ、まるでPパブの中で鼻の下を伸ばした助平じじいのようにかっ歩しており、周りのフィリピン人が、その仕草にひいていることにも分からず、同じ日本人として許せない気持ちでいると、すれ違いざまに、その50代の日本人はつたない英語で「今日の夜は寝かせないぞ!」と発したのです。

それを聞いた私は余計な事ではありましたが、同じ日本人としてあまりにも恥かしく感じたので、「おじさん、あなたがどんな遊びの仕方をしようと私には関係ないけど、こんな人が多い所で、それも, 英語で変なことをしゃべるのはやめなさい!」

「日本人の恥だから、それに私たち、他の日本人もあなたみたいな、 くそ日本人と同じように見られるのだということを判別のつくだろう年の人が言うなんて最低だぞ!」「そんな事はホテルの中で話すことだろう!」と言うと、私の迫力に負けたのか? 何も言わずにコソコソとその場を離れていきました。

そのやり取りを見ていた日本人が声を掛けてきて、私のような日本人を誇りに思いますとの事、その人も奥さんがピナイで、アノ手合いがフィリピン人やフィリピンに来ている日本人のイメージを悪くする事などをしばらくの間、立ち話ではありましたが話しました。

それからの私たち3人はロビンソンで食事をし、ホテルに一旦帰り、夜は現地のPパブへ行き、カラオケ三昧し、若いロイの事を思い、以前ならエルミタのゴーゴーバーへ行き、楽しむところですが、1995年には昔のエルミタはなく、エドサ通りのゴーゴーバーコンプッレックスに行き、ロイに好きな女がいたら呼んでいいよと、言うと、さすがにお姉さんの前でもじもじとしているばかりでしたが、私が早くしなさいと言うと、

「アテ ガールフレンドには内緒にしてね!」とロイ、それに対してリンは「大丈夫!」その一言でロイは、その店で1番若くてかわいい子を指名してホテルまでお持ち帰りしたのでした。

翌日、私はロイの昨夜の感想をつぶさに聞きだしたのでした。
(人のそうゆう経験談を聞くのは好きです)

その日の午後、マニラのすべてのスケジュールを終えて、書類上は婚姻も済み、いざ、サンホセへ!

前回、ダリアの田舎まで丸1日をかけ、心身ともに疲れきったことを思い出して2度とそんな思いはしたくないと考えて、自由がきくタクシーをレンタルしサンホセに向かう事にしました。

とはいえ、マニラのホテルからノースハイウェーの入口まで渋滞がつづきで、2時間ほどかかりましたが、ハイウェーに乗ると渋滞もなくスムーズに走り始めましたが、もうすでにこの時、私は疲労を感じていたので最初のサービスエリアで、休憩を取る事を提案したのでした。

サービスエリアでは、タクシーにガソリンを入れ、私たちも、ハンバガーとドリンクを買い込み、トイレタイムも済ませ、不安いっぱいの私を乗せてタクシーは一路サンホセへ再出発したのでした。

それから1時間ほどハイウェーを渋滞もなく走り、インターチェンジを降りてしばらく走りつづけると、そこには、私が少年期に育った昭和30年代の東京は多摩地区に帰ったような懐かしさを彷彿させる、田園風景が続いている地域にさしかかり、心地よい緑の甘い香りを含んだ、風を感じながら青々とした稲穂の中、サンホセへと続く、田舎道を疾走するのでした。

車中からの原風景は、今の日本がなくしてしまった大切な何かを思い起こさせてくれるようで本来、農耕民族である日本人の私たちのDNAが心を癒すのでしょうか、心地よいものでした。

そんな、時間も風のように過ぎ、日も西に傾き始めた頃には、今までの景色とは明らかに変わり、商店や大きな教会などが立ち並ぶ、地方の小さな都市に入るとそこがサンホセ市でした。

そして、街の中心から路地に入り、リンの家族が待つ家へとタクシーは進み行くのですが、タクシーが珍しいのか道を歩く人たちの視線を感じながら、無事、家に到着!車から降りると、角家の立派な1戸建てが私の目に入ってきたのが、リンの実家でした。

家の中に入ると、とりあえず、挨拶もそこそこにしてリンの部屋へ上がり、大きな荷物を置き、まずは一服し、無事に着いた事を実感していると、リンのダディー(父親)から下に来いと声がかかり、リビングに下りて行くと、そこには、リンの家族が集合していて、まるで私は裁判の被告になったような気分になり、ゆっくりと足を進めると、そこにはにこやかな微笑みで私を見るリンのママと妹のエルヴィとその横には弟のロイが、神妙な面持ちでソファーに腰を掛け、中央の席には身体は小さいが威厳のある態度でダディーが、私たち二人に対して席に着くように促すので、私とリンは席に着き、ダディーの言葉に耳を傾けました。

   ダディーは自分の娘が選んだ男を信じてはいるが、大切に一生娘を愛し続けて欲しい事!シンプルでよいから、無理をせずに、お互いを思いやる気持ちを忘れない事!などのアドバイスを話したあと、太平洋戦争の話になり、ダディーが幼年期に経験した日本兵の残酷極まりない仕打ちを心配していて、自分の娘も日本人と結婚して辛い思いをするのではないかが一番心配で、その辺だけは、譲れないように思われましたが、それらが守れるなら結婚を許すと言ってくれました。

私からもリンの家族に対して、日本人だからとは言ってもお金持ちではないので毎月の仕送りは、出来ない事や、私の人生の全てをかけてリンの為に生きていく事を確約して結婚の許しを受ける事ができました。

この話し合いで私が感じた事は、フィリピンの家族は縦割り社会なのだということが理解でき、今の日本にはない、良き、人の繋がり方を実感し、お金や物質先行の日本人の生き方が正しいようには思えないと再認識される事が出来たエピソードでした。

話し合いが、終わると今まで一言も口を出さずにいたママの一声で、食事の時間になり、
サンホセに着いてはじめての夕食を口にしました。(ママの料理はとても美味で御座いました)

いよいよ、翌日は結婚式へと突き進むのです。