日本人が忘れたもの

自分の子のように連れ子も愛しなさい

1995年3月1日 フィリピン共和国 ヌエヴァエシーハ州 サンホセ市 シティーホール 晴れ

私とリンは、判事、立会いの下、リンの両親やニノン、ニナン(立会い人)の前でフィリピン式の結婚式を無事終えて、近くのレストランで披露宴パーティーを行いました。

パーティーは、ランチタイムに合わせて行う事にしたのですが、それにしたのも理由があり、日本では、招待されたお客さんは祝儀を持ってくるのが常識ですが、フィリピンスタイルでは、結婚する本人がすべてのパーティー代金は負担するのが常識である事を知っていた私は、夜にパーティーをするととめどなく飲み続けてしまいかなりの出費を覚悟しなくてはならない事を考えて、ランチタイムに開催する事にしたのでした。

結果は大正解で、食事を終えた人々たちは次々と仕事場に戻って行き、残ったのはわずかな親戚の人たちのみで2時間もせずにお開きになり、結果出費もたいした事もなく総額で9000ペソ程(2万円程)で済むことができました。

諸兄でフィリピンの結婚パーティー経験のある方はご存知ではあると思いますが、フィリピンでは招待していなくても勝手に出席して飲み食いをする人たちがいますが、私どものように昼間にレストランで披露宴パーティーをすると、知人以外は参加しませんし仕事の合間に参加する事もありアルコールも飲まないので出費も抑えられるので、これからフィリピンで披露宴パーティーをする方はこの方法をお勧めします。

とはいえ、パーティーはシンプルではありますが、リンの友人が手書きの結婚祝いの看板プレートをプレゼントしてくれたり心温まるものになり、私たち2人の心に結婚してから13年たった今でも鮮明に残っています。

無事、披露宴も済み、自宅に帰り、翌日には、ファミリーで近くのキャンプ地に出かけて、スイミングや釣りなどをして1日を楽しました。

ここで、突然では有りますが、リンの家族の事に触れる事にします。

家族構成は、少し無口でお酒が好きな警察官の父親と、ともかく世話好きで明るく家庭を守っている母親がいて、長男のレイ、長女のリン、次女のエルヴィと年の離れた次男のロイの4人兄弟で、田舎ではありますが、土地付の40坪ほどの総2階建ての家を持ち、フィリピンでは中流家庭で、前妻のダリアの家から比べるとかなりの差は否めませんが、生活はいたってシンプルで理想の家族でした。

そんな、暖かい家庭の中ですこやかに少女期を過ごして大人になったリンを妻に迎えた事は私にとって、前妻と比べ、あまりにも違いすぎて、良い意味でとまどいを感じるのでした。

それに、(ダリアとの結婚生活で失敗したこと) で挙げた16項目にもすべてクリアしていましたし、現在結婚13年を迎えようとしている今も、勉強好きのリンから日本語や日本の風習に対しての質問がいまだにあり、私自身も日本を見直す事が出来て、改めてフィリピン人のシンプルな所や、現在の日本人が改めなくてはいけない事などを、考えさせられる毎日です。

話を元に戻しましょう。

リンが、日本に来たのはそれから1ヵ月が経とうとしていた頃で、私は以前に増して、トラックドライバーとしての毎日にシンプルですが幸せな生活を過ごしていました。
リンのほうは、日本人のおばさんパートだらけの、品物を仕分けする部署にパートとして、朝の9時から5時ごろまで働き年末などは夜中まで頑張っていたので、日本語や日本の習慣まで習得していき、私にとっては1から教えることなく、おばさんたちから色々な事を教えられていました。

それにより私は仕事仲間とも飲み歩きも出来ましたし、皆さんも経験があると思いますが、フィリピン人特有のヤキモチもなく比較的に楽な結婚生活を過ごしていましたが、休みの日には、二人だけの時間を大切にし、月に一度は東京近辺ではありますが、色々な所に行き、二人の思い出作りを沢山しました。

平々凡々とした毎日の中で私とリンは暮らしていましたが、ある日ドライバー仲間のひとりで伊東芳太郎という若者が、スーザンというピナイに恋をしたのです。

相談を受けた私は彼女が働くPパブに伊東君と行き、スーザンに会い、彼女の性格やフィリピンでの生活レベルなどの詳細を聞き出したところ、結婚はしていないがスーザンには当時7歳の女の子(長女:ヒヤス)がいて、住まいはマニラのカロオカン市の南部のトンド地区に近い、日本人の感覚では、人の住む環境になく、伊東君が20代前半と云う事もあり、私としては、子持ちの女性でなくても他にこれからいくらでも素敵な女性が現れるので、出来ればやめたほうが良いとアドバイスしたのですが、伊東君の意思は硬く、私としては本人がそこまで決めているなら致し方ないので、せめて養女に迎えるヒヤスを、実子が出来ても自分の子ように愛する事を約束して、応援する事にしました。

日本人同士の結婚でも子持ちの女性との生活はかなり難しいのでありまして、新たに子供が出来ると(特にその子が男の子)やはり、自分の分身のように思い、溺愛して養女の事を二の次にしてしまいがちで、家庭の中に養女の居場所がなくなることが、私は一番心配でしたが、その後に、この事が現実になるのです。

スーザンとヒヤスが入国して、しばらくは新婚の伊東君とスーザンの事を思い、私たちに子供がいない事もあり、時間のある限り、ヒヤスを私どものアパートによんで食事をしたり、週末にはお泊りさせ、翌日の日曜日には近くの遊園地などに、私とリンとヒヤスの3人で、まるで親子のように出かけていましたが、しばらくして、日本の学校にも慣れ、スーザンが妊娠し、当初はヒヤスも兄弟ができることを喜び、わたしたちから距離を置くようになり、私たち二人は寂しさを感じていましたが、反面、幸せな生活を送っているからだと理解していました。

その生活が一変したのが、スーザンに子供が生まれて、しばらくしてからそれまで素直な良い子であったヒヤスの学校での態度が変わり始めるのでした。

それまでのヒヤスは学校でも素直で問題も起こさずいたのですが、この頃から友達の物を盗むようになり始めたのです。

伊東君から相談を受けた私は、すぐに素直なヒヤスがなぜ悪く変身したのかが理解でき、伊東君にヒヤスの緊急信号を感じて欲しい、ヒヤスを自分の子のように愛して欲しい事を伝えました。

弟が出来て当初はヒヤスも喜んでいたのですが、ヒヤスを家に一人置き去りにして出かける事が多くなり、ヒヤスにしてみれば家族は有るが一人の時間が多くなり孤独な生活になり、寂しい毎日であるがゆえに、私にも愛をとの気持ちから友達の物を盗む事で自分をアピールしていたと思われましたが、そんな私からのアドバイスを聞き入れない頭の固い伊東君は、以前に増して下の子だけを愛する毎日で、ついにヒヤスは家出する事になるのです。

最初の家出先は、私のアパートでした。

リンが仕事を終えて勤め先から自転車に乗りアパートの前まで来た時、暗いアパートの階段の下でヒヤスが寂しそうに座り込んでいるのを見つけ、リンはヒヤスをとりあえず部屋に入れて私の帰りを待つ事にしたのです。

リンは私が帰るまでの間ヒヤスから、なぜこんな夜にひとりでアパートに来た理由を聞く事もせず、私の帰りを待ち、ただ、久しぶりに会えた事を喜び、食事をさせていた処に私が帰宅し、事の詳細をヒヤスから聞きだすことになり、ヒヤスがもう今の生活が嫌になり、家出してきた事を私に話しました。

ヒヤスの話によると、伊東君は長男だけを溺愛し、ヒヤスには日本の風習をきびしく押し付け、本来ならヒヤスの唯一の味方にならなくてはいけないスーザンまで伊東君側に回り、ヒヤスはひとりぼっちになって行ったのが推測でき、気持ちは痛いほどに理解できた私でしたが、日本人の私としては、とりあえずヒヤスに親を呼ぶ事を話し、もう一度、頑張りなさいと諭しました。

そして伊東君を呼び出し、いい加減に私のアドバイスを少しは聞く事を話しその夜は二人を帰しましたが、それから1週間もしないで、ヒヤスは、再び家出をして広島まで行ってしまうのです。

ヒヤスにしてみれば、自分の居場所がない日本にいるより、貧乏だが自分を愛してくれる家族が待つフィリピンに近づくために南に向かい広島まで行ったのですが、ホテルに泊まるときに、宿帳の記載を本当の住所や電話番号をやはり子供です、書いて連れ戻されてしまい、伊東君にとり、問題児で邪魔者のヒヤスはフィリピンに帰させられることになるのです。

あれだけ私が「自分の子のようにヒヤスを愛しなさい」と伊東君にアドバイスしたにも関わらず、最後は最悪の結果となり、ヒヤスのことを想うと今でも、最初に家出をした時に私が取った行動は間違いではなかったかを考えてしまうし、フィリピンに帰ったヒヤスのその後が気がかりでなりません。日本にいれば3食の食事には困る事もないのに・・・

その後、伊東君ともそれきりになっていきました。